橋本龍美画伯との出会い

株式会社 画廊たくら  田倉 明雄氏

 私は、今から32年前に27才で画商としての産声をあげました。絵の知識も画商の仕事も全く知らない、ずぶの素人のにわか画商でした。初めての展覧会を調布市で開催し、そのご縁で翌年から調布市に住むことになりました。

 調布市に住んで間も無い頃、山本丘人先生とご懇意の地元の表具屋さんから「ちょっと変わった人なんですが、大変に面白い絵を描く絵描きさんが近くに住んでいるので会ってみたら…」とご紹介を頂きました。また「丘人先生も一目置かれているようですよ…」とも言われました。そして、初めて橋本龍美先生のご自宅を訪問いたしましたのが、昭和46年9月の初めの頃でした。先生43才の誕生月でした。

 狭い玄関を入りますと、正面には2階の寝室に昇る階段があります。すぐ右側には、現在は余り使われていない食堂へのドアがあります。私は一足で玄関にあがります。そして左側の廊下を2足進みます。その左側はお勝手、その右側は板の間の画室兼応接間があります。画室に入りますと、右側半分が画室、左側が応接となります。右側の壁には描きかけの大小のパネルが立て掛けてあります。部屋には小さな石仏・能面・アフリカ木彫面・江戸後期の狛犬やお福さん…など々。まさに小さな博物館です。

 私は絵を背にして、汚れた薄い座布団に座ります。先生は、私の前に座られました。そしてその横には、A4大の木箱を置かれていました。その上には、キセル・マッチ・きざみ煙草と三角形の小刃が置いてあります。煙草と小刃とは?…。先生は、キザミを指で丸めキセルに押込みました。そして、マッチを取り出し柄の2/3を折って捨て、残りのマッチを小刃で半分に割りました。そして、またその半分を小刃で割ったのです。1本のマッチが4本になりました。そして、煙草に火をつけておもむろに顔を上にあげ、実にうまそうに吸い始めました。

 私は呆気にとられ動揺する気持ちを押さえておりますと、先生はにこにこ笑いながら「昔のマッチは材質が良かったのに最近はダメになった。キレイに割れなくなった…」と、新潟弁で平気でおっしゃられました。「金がないから、こうして貧乏を楽しんでおる」とも言われました。また「女房なんざぁ、八百屋に大根1本買いに行って、その何倍の野菜くずを貰ってきてメシの足しにしているんだ…」とも言われました。私は目頭がジーンと熱くなりました。

 売ることを考えず納得のゆくまで絵を描く、いつ出来上がるか判らずに描き続ける先生の姿勢は、当然のことながら貧乏生活の連続です。「下駄・漆・ペンキ職人…など々、生活の為ではなく好きな絵を描く為に何でもして来た…」と言われる。爪に火を点す生活の中、小金を貯めては高価な絵の具をキロ単位で購入し、棚には数10年分の絵の具が貯まっている。また、2階の鉄製の円柱箱3箱には和紙がギッシリ詰まっている。「いざ食えなくなったら乞食になる。乞食になっても絵だけは描ける…」と自慢気に語っておられました。因みに今でもスケッチ用紙は、郵送された封書を裏返しにして利用されています。

 本物の絵描きとは、絵描きの虫とは、このような人を言うのだろうか?…。定量以上に無理やり呑まされ、泥酔して帰宅した私は興奮して、その夜は眠れませんでした。

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