哈爾濱漢方薬局

中国伝統医学 (漢方)の偉人

漢方とは、日本における中国伝統医学の総称で、「漢に起源を持つ医学」ということで使われたといわれます。中国伝統医学は、数千年前の中国古代より、だんだん経験を積み重ねて形成した西洋医学と異なる医学です。長い歴史の間に、この医学の形成、発展に優れた貢献をした中国古代の医薬学家は数えきれませんが、その中の数名の偉人を紹介いたします。それでは、中国漢代の「医聖」と呼ばれる最も著名な医学家――張 仲景先生から紹介いたします。


医聖張 仲景ちょう ちゅうけい(150〜219年)

漢方医学の原典と言われている『傷寒論』は、中国後漢の末期(西暦200年ころ)張仲景によって書かれたとされています。張仲景は、『素問』『霊枢』『難経』などの古い典籍を深く研鑽して古代医学を継承し、更に自らの臨床経験を基に本書をまとめたと言われています。そして、診断では六経弁証を創造し、治療では汗吐下の攻方を主体として証に随って治療を行うなど中医学の原典に立って、その進歩、発展に画期的な貢献をしたので、中医学の「医聖」と言われています。


外科鼻祖華 佗か だ(112〜208年)

沛国蕉(今の安徽省毫県)出身。後漢時代の傑出した医学者として、その伝記が『後漢書』や『三国志』にも採り上げられている。華 佗は内科、外科、婦人科、小児科、鍼灸科の各科に精通し、なかでも外科の分野では、その卓抜した手技で名をなしていた。とくに「麻沸散」なる麻酔薬を用いて開腹手術を手がけ、いわゆる全身麻酔手術を創始したのである。このような全身麻酔による外科手術は中国医学史上、世界の麻酔学史上でも、また外科手術史上においても、画期的な出来事であったといわれている。


偉大医学家李 時珍り じちん(1518〜1593年)

明代を代表する医学者、本草学者、湖広薪州(湖北省薪春県)出身。本草学の確立者で伝統的中国医療の集大成者。言著『本草綱目』明末の本草学者、楚天府に仕え、医学家として本草を好んだ。当時、古事の本草著がはなはだ乱雑であるのを遺憾として、八百余家の典籍を参照し、三十年の歳月を費やして大著『本草綱目』王二巻を完成した。その内容は植物・動物・鉱物にわたり、出産・形色・気味・主治・付方を詳述したもので、本草学の一大聖典であった。まもなく神学万暦帝が国史編纂のため、書籍を四方に求めたとき、時珍の子連元は父の遺表とともにこの書を献じた。天子はこれを刊行させ、はじめて天下に広められ名声を博するにいたった。刊行後、まもなく日本にも伝わり、我国本草学者の一聖典となった。


薬王孫 思?そん しばく(581〜682年)

京兆華原(今の陝西省耀県孫家原)出身。没年は百二歳、長寿であった。彼は医家としての臨床経験は八十二年に及び、朝野にその名が知れ渡ったという。彼の書き記した医道の倫理は、中国医学史上、極めて重要な意義を持っていた。孫 思貌は生涯、臨床治療に忙殺されたが、寸暇を惜しんで医学理論の探究にも励んだ。彼は唐代以前の医学的資料を総括して研究し、これに自分の数十年におよぶ臨床経験を加え『備急千金要方』と『千金翼方』各三十巻を完成させた。薬物学では、薬物の採集、鑑定、炮製、分類について研究を深めたほか、薬物の貯蔵、保管についてもこれを重視した。彼がその著作において取り上げた薬材は百三十三類、五百十九種におよび、薬材の品質の優劣と臨床での治効の高低が、薬物鑑定のポイントであるとしている。また、海外より輸入された薬材についてもその重要なものを採り上げ、中国の本草学を充実させた。これらの薬物学に対する卓越した貢献によって、孫 思貌は後世の人々から「薬王」との尊称を奉ぜられることになる。


王 肯堂おう こうどう(1549〜1613年)

江蘇金壜出身。王 肯堂は、博く明代以前の歴代医家の重要医籍を通覧し、古今の方論を集め、これに自己の見解と経験を加え、高隠による記録整理の手を経て『雑病証治準縄』など6册の書籍を完成した。王肯堂の手によるこれらの医書はいずれも内容が豊富である上、理論構成が整っており、高い臨床的価値を持っている。一方、王 肯堂の交遊関係は広く、かつ医学以外の分野でも博学であり、天文、暦算、書画、禅学などにも造詣が深かった。


葉 天士よう てんし(1667〜1746年)

江蘇・呉県の出身で、清代に温病学を創始した一人、温熱学派を代表する医家であった。『温熱論』を著わし、温病の発生、進行のパターンを明示するとともに、温病が衛、気、営、血を侵しゆく四つの段階での弁証論治の基本を提示し、温病学説の理論体系を形成する上で重要な基礎をなした。この業績を残した後も、温病に関わる医籍が次々世に問われた。

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