橋本龍美の絵画に見る“故郷の変容”

藤嶋 俊曾氏
(美術評論家)

「あけびの実は汝の霊魂の如く 夏中ぶらさがっている」(西脇順三郎「旅人」より)


 橋本龍美の年譜をたどってゆくと、創作上の重要な転機がいくつかあるのに気がつくが、ここではそのうちの二つの時期を中心に考えてみたい。橋本が作品を定期的に発表するのは、新潟県文化祭美術展を別にすれば、1952年の第16回新制作協会展(第5回日本画廊)からである。同会の日本画廊が解散して1974年に設立された創画会に移ってからは、春季展と秋の創画展の年2回の展覧会を舞台としている。春季展も脇役的な位置をしめてそれなりに重要であるが、やはり秋にはいつも大作(屏風が多い)を発表しているところから、橋本は秋の展覧会に主力を注いできたといってよい。したがって新制作展と創画展に出品した作品を仔細に見てゆくと、画家の創造の世界に迫ることができる。

 まず第一に注目すべき時期は、60年代半ばから70年代半ばまでの約10年間続いた「お化け地蔵」や「お化寺」などのシリーズである。この頃はまた「祭鉾」とか「見世物」など、神事に属することもモチーフに選ばれている。つまり仏と神々の世界が俎上に上がっており、しかも両者に対する舌鋒は鋭く、地蔵や仏たちは戯画化され、風刺の対象として笑い飛ばされている。地蔵といえば、庶民の素朴な信仰の対象であり、小さいながらも現世的ご利益を叶えてくれるもっとも身近な存在である。また危険を予知して回避してくれたり、身代わりになったり、あるいは地獄の番人として罪人を救済する役目も持っている。そうした庶民の信仰の対象を敬うのではなく、辛らつな描写で戯画化するのはなぜだろうか。ひとつ考えられるのは、お寺や地蔵のモチーフを借りて美術界や宗教界の旧弊を風刺する意図を持っていたように思われる。地蔵や仏の顔が奇怪な狐やお化けにすり変わっているのは、建前と本音を巧妙に使い分け、富や権力に群がり、甘い汁をすすろうとする人間界の魑魅魍魎を表しているからである。

 この頃の橋本の旺盛な批判精神は、時代の空気でもあった。橋本自身1966年の第7回現代日本美術展に出品してコンクール賞を受賞するのを皮切りに、翌年第9回日本国際美術展、68年第8回現代日本美術展、71年には第15回のシェル賞美術展(佳作賞受賞、翌年も出品して三等賞受賞)などの活動を見ていると、日本画という枠を越えた意識で出品をし、盛んに他流試合を試みている時期であった。他方橋本が属している日本画壇は、公募団体の屋台骨が、新世代の登場によって揺らぎ始めた時期でもあった。1961年日本画界の異端児中村正義が日展を脱退、翌年には新潟県出身の風雲児横山操が、川端龍子が率いる青龍社を脱退する。1966年その青龍社が解散、同じ年美術評論家針生一郎が企画した「これが日本画だ」展の第1回展が開催される。公募展の旧い体質が問題にされており、橋本はこうした画壇の内情を知りながら自らの問題として、厳しく作品化したのではないだろうか。色彩を抑えたモノクローム調の細く鋭い線描は、神経症的なこの時代を反映している。

 そしてもうひとつ考えられることは、画家の内面に関わることだが、お寺や地蔵という、いわば画家の故郷のシンボルを戯画化する内的衝動に駆られたことである。新制作協会展の連続入賞を足がかりに、1961年画家を志して上京した橋本に、故郷のシンボルを作品として対象化する時間的な距離ができたのではないだろうか。それは情緒纏綿たる故郷のしがらみを断ち切ることでもあり、作品がひとつの世界として作者から自立してくる過程でもあった。そこには故郷に対するアンヴィヴァレンツな想いもあるが、決して唐突な行動ではない。子供の頃の年寄りの夜噺の記憶や加茂市に伝わる伝統芸能「うしろ面」の知識などがあったればこそ、故郷のシンボルを対象化するのも容易であった。橋本にとって地蔵は偉くも何ともない。地蔵も悪さをする、地蔵も自分も狐もみんな同じだと思えるからこそ、地蔵や仏像を戯画化して対象化することも可能であった。かくして橋本の独自な世界が築かれ、「新世代の登場と評価が高い」(「創画会30周年記念展」カタログより、昭和53年、東京セントラル美術館)と期待されるに至った。

 しかしやがてそうした戯画化も治まり、次第に穏やかな画面が増えてくる。地蔵の顔にも落ち着きと笑みが戻り、草木虫魚も地蔵に親しくまつわり、狐もそれまでのいたずらを詫びるかのような顔をしている(「郷」1977年、「風之唄」1981年など)。それまでの激しい戯画化の反動ともいえるような故郷に対する懐かしい情感があふれてきて、故郷の風景が登場してくる(「山河在り」1979年、「雪の中」1983年、「望郷四季」1986年など、90年代に入ってからも様式を変えながら繰り返し描かれる)。しかも画家の視線は常に市井の人々と同じ高さである。夫婦喧嘩あり、子供の遊びあり、働いている人あり、お喋りする人あり、みんな暖かく懐かしい表情をして戻ってきた。いつのまにか作品の世界では故郷が変容を遂げていたのである。

 春の陽射しにはまだほど遠い2月中旬のある日、画家の生地加茂市を訪れた。青海神社や加茂山公園、「裏づら」の旧い街並み、加茂川など、想像力を刺激する風景もいくつかあるが、もはや橋本が描いた故郷は当然ながらそこにはなかった。橋本の絵画において故郷の変容を促したのは、故郷はもはや橋本の胸中にしか存在しないことを画家自らが確認したからではないだろうか。

橋本龍美展(平成14年4月開催)図録



傘鉾(武将) M50


地蔵さん(三体) F10


祠馬(武将) F10

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