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藤嶋 俊曾氏 |
故郷──切々たる慕情 |
橋本龍美の作品を見ていると、既視感に襲われると同時にある懐かしさがこみ上げてくる。たとえば空高く舞い上がった派手な絵柄の凧(作者は「イカ」と呼ぶ)を描いた作品の場合(「万華」1995年など)、この絵柄は以前どこかで見たことがあるのに気がつく。子供の頃に見た絵本やメンコなどの遊びのなかで弁慶や義経の武者絵や相撲の力士の絵などが割合身近にあったことを思い出す。 |
日本画の革新を求める |
ところで日本画家橋本にとって、明治以来の日本画の近代化はどのように映ったのだろうか。周知のように日本画は、それまでばらばらにあった諸流派が、洋画の参入に促されて、美術という上位概念に加わろうとする動きの中で生まれた概念であった。日本美術院の創立(1898年)から戦後の創造美術の結成(1948年)や新制作協会との統合(1951年)、あるいは他の公募団体の動きを見れば、日本画は展覧会芸術として常に洋画への接近を求めてきたし、日本画と洋画の差はもはや画材の違いでしかないと言われた時期もあるほどであった。朦朧体の積極的な色彩表現、装飾性の排除、描線を主とした平面的な描写から写実を基本にした構築的な画面作りへ、風景や人物の理想化された世界の表現、戦後は特に絵の具の厚塗りなど、日本画は洋画と肩を並べようと励んできた。 橋本の歩みにおいても、1952年の第十六回新制作協会展に初入選した「母子像」など初期の頃の作品は洋風である。以来入選を続けるが、60年代半ばに転機を迎える。「祭鉾」(1965年)や「お化地蔵」(1966年)、「化寺」(1966年)、「カラスウリ」(1970年)などの、魑魅魍魎や妖怪が跋扈するシリーズによって新作家賞を受賞するのをはじめ、現代日本美術展や日本国際美術展などにも出品して受賞し、1971年には新制作協会日本画部の会員になる。自分自身の世界とスタイルを発見したこの頃の橋本の活躍ぶりを見ると、やはり心中ひそかに日本画の革新を求めていたことが窺える。 |
市井の暮らしを描く |
橋本の描く地蔵は実に人間臭い。地蔵という、民衆の生活に密着した素朴な信仰の対象を笑ってみせる、そのしたたかさは、高所から見下ろす姿勢からは生まれない。橋本の作品によく登場する、人間にぴったり寄り添い、変幻自在に化けて現れる狐の目線を持ってこそ可能である。人間と動物、それに神々や仏たちが親しく交流する前時代の民話が舞台であり、画家が子供の頃たくさん聞かされた年寄りの夜噺の世界である。 郷里の加茂市には、江戸歌舞伎の流れをくむ変化舞踊後面(うしろめん)が全国唯一残っているという(廣圓寺住職の示唆による)。表に尼僧の面、後ろには狐の面をつけて、一人で前後を踊り分ける、妖気の漂う伝統芸能である。橋本の地蔵は、まさにこの後面の方法を借りて、宗教や人間界の表層を暴く。 同時に琳派風のデフォルメや屏風仕立てなど、日本画の伝統や形式を積極的に採用し、あるいはかつて身近にあったヴィジュアルなサブカルチャーを作品に取り込む。近年は、仏教文化のルーツを探る大陸幻想の世界が登場し、画家胸中の理想郷中国への見果てぬ夢が描かれる。 したがって橋本の目指す日本画の革新が、いつの間にか周囲とは逆の方向を向いてしまったのも当然である。周囲は、生活観や人間性を欠いた花鳥風月風の類型化した作品が大半を占めている。それに対して橋本の世界は、前述したさまざまなシリーズや作品も含めて、蛙や虫たちが遊ぶ鳥獣戯画風から、さらには中国仙人たちの飄逸で大らかな笑いなど、全ては市井の暮らしというごく自然の目線から発想されている。なんぞおもしろからざん。 |
「月間美術」第319号(2002年4月)展覧会と作家ズームアップ |
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